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ただのお母さんも昔話の語り手になれる気がする『ちからたろう』

『ちからたろう』
(今江祥智 たしませいぞう ポプラ社 1967年6月)


暑苦しい
圧が強い
泥臭い
そんな絵です。

こんなふうに始まります。


(以下引用)
とんと むかし。
それは もう、まずしい じいさまと
ばあさまが おった。ふろなぞ、めったに
はいれんものだから、からだじゅう、
こんび(あか)だらけで あった。
ある日のこと、じいさまが いった。
「わしらには、もう、わらしは できねえ。
せめて、ふたりの こんびでも おとして、
それで にんぎょうでも こさえるべや。」
(引用ここまで)




どうしてそういう発想になるのだろう。
自分たちの垢で人形を作ろうなどと。

「きのこみたいに、
ぼろんぼろん」とれた垢で人形を作るんです。
男の子です。
「こんびたろう」と名付けます。

貧乏なじいさまとばあさまですが、こんびたろうに、ご飯を食べさせます。
人形だったのに、食べるんです。
成長するんです。
子どものいなかった二人は可愛がります。
山盛りのご飯を運ぶ二人の嬉しそうなこと。
(ちなみにわたしはこのご飯の盛り方を「昔話盛り」と呼んでいます。)

でも、こんびたろうは、大きくなるのだけれど、寝たきりなのです。喋らないし。

ところが何年も過ぎて、突然、口を聞きます。


(以下引用)
「なあ、おらに、
百かんめの
かなぼうを つくって
けろ。」
じいさまは
びっくりして
「だども、まだ
足こしも たたねえ
くせして、
どうする つもりだ。」
「だからよ、
そいつで つっぱって、
たってみるんじゃ。」
(引用ここまで)




100貫目とは、375kgです。

寝たきりだった子が?


(以下引用)
十にんの わかいしゅが、
がやっとこすっとこ
かついで とどけた。
(引用ここまで)



このページをめくると、圧巻です。
この場面がすごく好き。

シニア向け絵本の会で読んだときも、この場面、大絶賛でした。

こんびたろうが、金棒を杖に、立ち上がる場面。
ここから、彼は「ちからたろう」と名前が変わります。

この場面で、思い出すのが、小澤俊夫さんの「三年寝太郎」のお話。

静岡で開催された小澤俊夫さんの講演会で伺ったのです。

寝太郎は、若いときはずっと寝ていた。
頃はぶらぶら遊んだり、サボったり、寝てたりしてるよ。
でも、あるとき、起きて働くよ。
みんな、そうだよ。
今、寝てるんだから、寝かしといてやってよ。そのうち必ず起きるよ。待ってたらいいよ。

こちらで小澤俊夫さんの寝太郎のお話が聞けます。
ぜひ、聞いてほしいです。


立ち上がった ちからたろうは、みどうっこたろうといしこたろうに出会います。
出会い方は、少々、荒っぽいです。

3人は
「のっしじゃんが ずしん、
のっしじゃんがずっしん」
と歩きます。
この言葉が好きです。

3人で化け物に挑みます。
ところが、みどうっこたろうといしこたろうは飲み込まれてしまいます。
ちからたろうは、化け物を下から蹴り上げます。
すると、化け物は
「んぎゅっ、むう。」
吐き出して、消えてしまいます。

この場面、うちの子どもたち、大喜びでしたねえ。
わたしの渾身の「んぎゅっ、むう。」で読みます。

田島征三さんのこの絵は、第2回世界絵本原画展で金のりんご賞を受賞しています。

2017年平塚市美術館で開催されたブラティスラヴァ世界絵本原画展にて原画を見ました。
↑そのときのブログ

泥絵の具と膠(にかわ)を大胆にもったりと盛り上がるまでぬりたくってました。
絵本だと平面になってしまうけれど、その質感は感じられると思います。

絵本の奥付に、田島征三さんの言葉が載っています。


(以下引用)
ぼくは、山奥で育ったので、子どものときから村の年よりたちの昔話をよくききました。
(中略)
この絵本をかくとき、おそらくもうこの世にはいない、あの在所のじいさまやばあさまの、すすだらけの炉ばたで話すときの、表情や手ぶりをそのままこの絵本のなかで、よみがえらせたいと考えました。
(中略)いかにも、いろりの灰のなかから、生木をもやす煙のなかから、まっくろにすすけた土びんのふたをもちあげる湯げのなかから、今とびでてきたばかりのように、力強く、土くさくかきたかったのです。
(引用ここまで)




絵にも、昔話の息づかいのようなものが感じられるのは、そういうわけなのか、と思いました。


この絵本は、読むと10分ちょっとかかるし、なかなか読むチャンスを見つけることができないでいます。

でも、久しぶりに声に出して読んだとしても、10年も20年も前に、何度も何度も子どもたちと読んだときの、言葉のリズムが自分の中にあることに気づけます。
言葉を読む、という感じではないのです。
読む、じゃない、じゃあなんだろう?
語り、というのはおこがましい気がするけれど、ただのお母さんも、昔話の語り手になれる日本語なのかもしれません。

わたしの持っている『ちからたろう』は新版でした。
言葉は、書き改められたようです。
旧版も読んでみたいです。

『ちからたろう』
(今江祥智 たしませいぞう ポプラ社 1967年6月)

インスタグラムでも『ちからたろう』ご紹介しています


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